あいころも

日々のあれこれ、短歌など。ときどきによって変わります。

湯川遥菜さんと後藤健二さんのご冥福をお祈りします。

残念なことだった。
このような事態に毎日向き合っているシリアの人々、生活も精神的にもどれだけ大変だろう。
たったふたり、ほんの二週間のことでも、そこそこの大きさの石を飲み込んだような重たさがある。

ISISの戦闘員になる人は、どんな思いがあるのか?
戦いの負の連鎖、貧しさ、差別、グローバル化の疲れや失望。
そこに行きたくなる気持ちも分からなくはないのだ。
この社会は疲れる。わたしも逃げたい。でもここから逃げたそこも、同じ構造の場所でしかない。
とても残虐なそこに惹かれてしまった人々は、なにかにたいする怒りや復讐があるのではないか。
取り返したいものがあるのだろうか?
宗教をつかって彼らを扇動しているのは、中枢の賢いひとにぎりの存在でしかないのに。

おかしなことになる前に、受け止めてやる逃げ場所がいる。


皮を引き剥き、獣性をむき出しにして、感覚が麻痺して・・・
いや、獣は自分たちのルールを守っている。人間だからこそそうなるのか。
極限の状態になれば、わたしだってそうなる可能性はないとはいえない。
セイタカアワダチソウが自らのアレロパシー成分の影響を強く受けて、数を減らしたことなども思い出す。
人間にも生命の不思議が及んでいるのだろうか。

話はどんどんと政治的になってしまい、ニュースも消耗され、大事なことを見失わないように気を付けないと。
時代がどう変わろうと、遠回りでも、草の根的なことをつづけるほかないのかな。
あたりまえのことをする。あたりまえの暮らし。あたりまえを保つって、大変なことだった。

難民の受け入れが日本は厳しすぎるというコラムを読んだ。
後藤さんが報道したかったのは、政治的なことではないと。はっとする。
19歳の時に、タイにあったパナニコム難民キャンプを訪れたことがある。
ベトナム戦争で祖国から逃げてきた人々が避難し、第三国へ向けて教育を受けていた。
日本へ向かう人々もいて、満面の笑みで声をかけてきてくれた。
しかしその笑みは、どうなったろう。希望をもって暮らそうとした日本で差別に合うという。

当時の私は、この話を聞いて
わたしは差別をしていると思った。
そして、このことが分かったうえでも差別をしてしまいそうだ、と思った。
そう思う自分が、居心地がわるかった。

倍以上の年月が過ぎて
人はみんな頑張って生きていると知ると、人種で差別はできない。
差別はしないが、マナーとかで衝突はおきるだろう。
そういう人にはね、知らないのだからよく教えなければいけない
と短歌の先生だったら言うだろうな。

昨日のテレビで、イギリスでは移民の二世がテロリストに勧誘されていると知る。
人種差別で不満や孤独を募らせているから、勧誘の狙いになっていた。
自分のすぐそばにあるちょっとした偏見が、おおきな惨事へとつながっている。
ひとりひとりのちょっとしたことからおおきな事件へと発展する。
ひとごとではない。堂々巡りにならないように。

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